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ごめん、ごめん店長Mことペギラで~す!お久しぶり、ギャオーッツ
ペギラのGM(おばあちやん)がアルツファイマー病になり、朝食、夜食の支度、洗濯やら
なんかで、ブログがなかなか出来ませんでした。当然、ペギラのにんにく嫌いの妻も
家を出て行っちゃたのよー。ウ・ウェーン、ギャオーツ(=_=)
でも、最近は気にせずに過ごしているので、みんな安心してネ。 



今日は、写真の始まりのお話をするのだ。写真なんて携帯電話で写せる時代、明治時代前の「坂本竜馬」も現代の日本にタイムスリップ出来たら、びっくりするだろうね?
何の話かって我が国のプロカメラマンのはじめは関東では下岡蓮杖(しもおか れんじょう)、関西では上野彦馬といわれ、二人とも相前後して外国人から写真技術を教わっている。
横浜では「下岡蓮杖」が最初だと言われているのよ?!


下岡蓮杖は小さい時から絵描きになるつもりで勉強していたが1856年8月、下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕役として玉泉寺に滞留しハリスの通訳をしていたヒュースケンから写真技術の教えを受けたようだ。
ヒュースケンは木の枝を三本建てて、紙の箱をカメラにみたて、小さい鏡を置いて形を示し、ガラス板に薬品を塗ることや暗室で現像することを(当時名、久之助)下岡蓮杖に教えた。蓮杖はこれを聞いて大いに喜び、さっそく暗箱に竹の筒をつけ、それに眼鏡のレンズをはめたカメラを試作してみたが、うまくいかなかった。
ペギラも幼少の頃、そういう実験をやったことが、かすかな記憶にあるのだ・・・
(おぼっちゃま学校時代)

それから3年後、蓮杖ハリスのもとを去り、1860年に横浜に出て来て、居留地のアメリカ人雑貨商シャイヤー夫人から洋画を学んでいた。この雑貨店にたまたまアメリカの写真家ウンシンが寄留したので、彼から写真の指導をしてもらおうとたのみこんだが、断られてしまった。しかたなく、彼の助手をしていたラウダー女史について研究をかさねた。
そのうちにウンシンが帰国することになり、彼からカメラや薬品一切を譲り受け、シャイヤー家の一室(便所を暗室にした?エーッツ)を借りて研究したが、うまくいかず借金も二百数十両とかさみ、もはやこれまでと思った最後の一枚に、奇しくも像が浮かび出てきた!!

ヤッターヤッター、ギャオーッツ 当然、蓮杖は喜んで、その写真を友達に見せて資金を借りて「野毛」に小さな店をだした。しかし、「写真を撮ると命がちぢむ」という迷信のため、写真を撮りにくるものが少なかった。
そこで本拠を「野毛」から「弁天通」に移した処、浪士の間で写真を撮るものが、増え(この頃、坂本竜馬も有名な写真が残っているよね)外国人の利用も多かったので
たちまち借金を返す事ができた。時に1862年7月の開業という。



ペギラ曰く、努力せずに成功はないが・・・ペギラは成功したことが無い( ^^)
その後、蓮杖は一旦、故郷の下田に帰り、6年後の明治元年(1868年)に再び、現在の中区太田町四丁目あたりに二階建ての建物を新築し、富士山を型どった大看板を中央に
右側に「相影楼」、左側に「全楽堂」の字額を配し、不二屋と号した。1階は地本、錦絵、絵具や小間物の売り場で、2階は撮影室に設備したのだ!



蓮杖は明治五年(1872年)7月21日の夜、横浜港内で起こったアメリカ船の火災を波止場から撮影して成功したというが、これは、我が国で最初の「夜間撮影」であった!



やっぱり、横浜はすごいのじゃー ギャオーッツ(また、ペギラの顔が自慢(^-^))
(現在、蓮杖が撮った湿板写真は国内でも、わずか6枚のみ)

下岡蓮杖(シモオカ レンジョウ)(1823年~1914年)



# by home-station | 2012-05-02 11:25
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